ニュース&レポート

2013.10.01

てことば

てことば
第7回国際コンペティション名古屋デザインDO! 2010 グランプリ受賞
デザイン:吉田 友梨(日本/企業デザイナー)

[コンセプト]
手話を使い、言葉が生まれる瞬間を追体験してみたいと思った。普段、私たちが意識せずに使っているコミュニケーションツールとしての言語は、現実にはひとつひとつの言葉に分解されr、それが交互に繋がることで他者に到達する。しかし、日常会話の中ではそんなことは一切意識されない。手話においては、そういった自明性の中に埋没してしまった部分としての、言葉の発せられる瞬間が具体的なかたちとして目に見えてくるのだ。あたりまえのコミュニケーションのあたりまえではない部分を感じるために取り組んだプロジェクトである。滑らかな音でmなく、無骨な仕草だからこそ、言葉の送り手も、受け手も、お互いに一歩ずつ相手に近づこうとする。だからこそ、その滑らかでないところに、私は希望を感じる。そこにコミュニケーションを感じている。 

手話に出会ったときの驚きは忘れられない。手が空間を滑り、時にコマ送りの画像のように加速する様子に私は魅了された。こういう「ことば」が存在することへの驚き。コミュニケーションデザイン分野での卒業制作のテーマを考えている時に真っ先に浮んだのがこの記憶だった。子供の頃手話に感動したのはなぜだったのか。

手話は、聾者ではない私たちがあたりまえのものと考えているコミュニケーションがそんなに「普通」ではないことに気づかせてくれる。日本語は個別の単語と単語が助詞によって繋がれている。しかし日常、繋ぎ目は一つ一つの単語に融け合い、メッセージは一筋の連続体になっている。手話は助詞を口の形で表現するという構造上(少なくとも、聾者ではない私には)ごつごつした印象を与える。その手触りは、対話が言葉の集合体だというあたりまえの事実をさらりと暴きだしてくれる。

この不思議さは実は手話だけにとどまらない。
 手話によって実はコミュニケーションというものが生まれる瞬間を体験しているのかもしれない。原初、心の奥に漂う、明確なかたちのない想いを、他者に伝えようとしたところから言葉は生まれた。言葉はそもそも肌理の荒いものだった。その後何千年の時間をかけて言語は端正に磨かれ、滑らかなものになっていった。
 では自分の思いを伝えるということ自体も、同じように流暢になったのだろうか。
流暢に話せるからといって自分の思いを十分に伝えられるわけではない。それが理解できる程度には大人になった。伝わりにくいからこそ、人は伝えようとし、わかりにくいからこそ、人は耳を傾けようとするということが、ざらざらとしたこの手触りを通じてわかってきたような気がする。

物事の始めに戻ろうとすることで、私は、手話という記憶に出会い、そこから、もう一度コミュニケーションというものは何かを真剣に考えることができるようになったような気がする。

 

(初掲:IdcN Annual Report 2010/2011年6月)

※講評・審査員コメントなどは、「第7回国際コンペティション名古屋デザインDO! 2010 開催レポート(コラム)」でご覧いただけます。

吉田 由梨Yuri Yoshida